地震から14年

華玉山 依芽呂または、華珠家 舞芽鷺

2009年01月16日 22:45

明日の早朝で阪神淡路大震災から14年との事。

当時、僕はアメリカオレゴン州で農業研修を始めたばかりだった。

なので当日の慌ただしさは全く知らない。

地震を知ったのはテレビ報道だ。

壊れたので新しいテレビをホスト農家さんが買ってくれて、最初に映った映像がバスが阪神高速から半分落ちかかっているところだった。

翌日のオレゴンタイムズもそのバスの写真が一面で報道していた。

国際電話で両親に電話をすると、朝に大きな地震があって、テレビをつけたら大変な事になっていたと話してくれた。

と同時に神戸出身の同期に電話した。正直余り仲良くなかったが。

同期は既に家族と連絡が取れていたようで、詳細を簡単に話してくれた。

新聞報道で忘れられないのは、グランドに「水が欲しい」(記憶が定かでないので違うかも)と書かれた航空写真。

しかし、これだけ大きな地震でもいまいち実感がわかなかった。

去年、イチゴ生産者組合の視察で兵庫県に行ってきた。

新聞で見た横倒しになった阪神高速。復旧したその道路を走った。

例年、イチゴの視察は会員におばさんが多い事もあって半分観光だが、ここ2年は僕が組合の会長ということで半分観光でも何か農業以外で学んでいこうと提案し、神戸人と防災未来センタ―に行くことにした。

ここは阪神地震に関する博物館。

地震が起きた午前5時過ぎを3D映像で5分ほど再現している。

一緒に見ていた地元中学生のうち数人が気分悪くした。それ位リアルな再現なのだと思う。

展示してる当時の新聞記事で忘れられないのは、両親を阪神地震で亡くした3歳位のキティちゃんのマスクをした女の子の独り姿。

この時、初めて阪神淡路大震災の悲惨さを実感した。

やるせない、行き場のないもどかしさを実感しました。

近い将来来るであろう東海・南海地震の予防。

奇しくも阪神淡路大震災が防災の大きな転機になった事で各人の防災意識、救助技術の向上ができた。

あれから14年。

14年目にして知った阪神淡路大震災の実態。

今から出来る事が何かを考えたい。

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